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大野俊三×玉乃淳 “自問自答を繰り返して今がある”

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 去る2016年8月7日、キングカズこと三浦知良選手が、49歳5カ月で最年長ゴールを決め、0-2で負けていた試合をひっくり返して、大逆転勝利をおさめました。現役最年長でプレーを続けられているその姿は、まさにレジェンドの称号に相応しいのですが、今回のゲストはその数少ないレジェンドの称号を有する鹿島の雄姿、大野俊三さんです。ドーハの悲劇を経験したサッカー人生と同様に、激動のセカンドキャリアを歩んできた大先輩にその道のりをお伺いした今回。鹿島ハイツスポーツプラザの取締役支配人の「これまで」と「いま」を大いにお話しいただきました。

 

心の底には常に”鹿島愛”があった 

慣れ親しんだ土地に戻って、

できればアントラーズで

指導をしたかった。

 

玉乃 今日はよろしくお願いします。このコーナー、実は鹿島アントラーズで活躍されていた方は初めての対談です。

大野 へえ、そうなんだ。元鹿島はみんなエリートだからね。僕ぐらいじゃないかな、「外れモノ」で、険しいアップダウンあるエピソードがバックボーンになっているの。住金(住友金属工業サッカー部=鹿島アントラーズの前身)時代、一緒にプレーしていた後輩の手倉森誠は、五輪代表の監督になったよね。黒崎、秋田、奥野、相馬…みんな一流の指導者や解説者として、日本のサッカー界を支えている。

玉乃 でも大野さんは、この広大なスポーツ施設「鹿島ハイツスポーツプラザ」の支配人ですよね?!どうすればこんな重要なポストに就けるのか、興味津々です。セカンドキャリアのスタート…引退されたのは31歳でしたよね?

大野 そうだね。1996年に鹿島から京都に移籍して1年間プレーした後、他のクラブでの現役続行を模索したけれど、京都から指導者の話をいただいて、最終的にはそれを受けることにした。僕には、ジーコから教わったサッカー観があったからね。僕みたいにノンタイトルだった人間が、日本代表にまで上りつめることができたのもジーコのおかげなんだけれど、彼のサッカーに対する姿勢や情熱を間近で見ることができたのは、本当に貴重な財産となった。それをただ単純に後進たちに伝えたいと思ったのが、指導者のオファーを受けた理由だよ。

玉乃 どのカテゴリーを教えていたのですか?

大野 ユースやジュニアユース、それと京都市内の幼稚園を巡回する普及活動にも携わった。結局、京都で4年間お世話になったけれど、時が経つにつれ、鹿島に戻りたい気持ちが芽生えて、少しずつ大きくなっていった。鹿島には住金時代にお世話になった先輩をはじめ、親しい仲間や昔から僕を支えてくれた人たちがいる。できることなら慣れ親しんだ土地に戻って、指導者としてやっていきたいという考えも心の底にあった。それで、何かキッカケがあればと思っていたところに、アントラーズに関連した広告代理店で働いてみないかと誘ってもらって、鹿島に戻ることにしたんだよね、広告代理店の営業マンとして。

玉乃 サッカーの指導者から営業マンに転身されたのですね。

大野 その代理店にいれば、アントラーズのフロントとも話ができるわけだからね。少なくともクラブとのつながりがあるという意味では、そこにいれば、指導スタッフへの道もひらけてくるのでは…なんていう狙いは確かにあった(笑)。
で、鹿島に戻るタイミングで、飲食店開業もしたんだよ。『やんちゃくらぶShunzo』っていう洋風居酒屋なんだけれど。

玉乃 居酒屋ですか?どれくらいの規模だったのですか?

大野 全部で50 席ぐらいはあったかな。ちょっとしたパーティもできるぐらいの大きさで、僕もお店に出たときには、ギター片手に弾き語りをやったりしてさ(笑)。

玉乃 へぇ、面白そうですね。ちなみに弾き語りはどんな曲を?

大野 主にフォーク。あとは…替え歌メドレーとか(笑)。

玉乃 こんど、ぜひ聞かせてください。それで、お店は順調だったんですか?

大野 それなりにはね。そのお店が軌道にのりかけたとき、もっと利益を出そうとして、実はもう一店舗オープンさせたんだよね。ラーメン、パスタ、そば、うどんなどを選んで食べられる、麺類中心のお店なんだけれど。

玉乃 それはすごいですね。

大野 でしょ?でもやっぱり、ラーメンが食べたければ、ラーメン屋に行くのが自然なわけで、「麺類」という大きなカテゴリーは、逆にお客さんを迷わせてしまって、思うような成果は得られなかった(苦笑)。