TAMAJUN Journal

岡部恭英×玉乃淳(前編)“どんどん海外に出て行かないと、とてもじゃないけれど日本は世界で勝てない”

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29歳で夢のアメリカへ。しかし…

岡部さん_7888

岡部 全然天才でもなんでもなくて、ことさら勉強に関しては落ちこぼれだったよ。でもね、そこでまたエクスターナルファクターがあったんだなあ。暇つぶしのために観に行った早慶戦のスタンドで、先輩やら同期に会ったわけ。大企業に入社してやりたくもない仕事して疲弊して「自由でいいよな、羨ましい。」なんて言ってくる連中もいたんだけれど、ネクタイしてバリバリ働いて輝いている先輩方もいてね。その中の1人がボソっと「岡部もこのままじゃ、ヤバいよね。」と。のちに某企業の有名社長になる男なんだけれどね。確かにこのままじゃヤバいなと思って、早慶戦の帰りに本屋に行って、とにかく雑誌をあさって、「海外就職特集」を手にしたんだよね。

それで初めての就職先はベトナム。アメリカに直接行くのは英語力的にも難しいとそのときは判断して、まずはアジアで経験を積もうと。そこで初めてビジネスを学んで。常に「アジア出発アメリカ終着」を意識していたかな。

その後、一年の時を経て、ベトナムからシンガポールへ。ベトナムの企業からシンガポールへの出張も多く、アジアのハブであるシンガポールは常に意識していたよね。よりグローバルな場所を求めてエレクトロニクス系の会社へ移籍(転職)したんだけれど、最初の面接から「僕は将来アメリカに行きたいから。ここはそのための通過点です」と生意気に発言していたね(笑)。シンガポールでは半導体などの仕事などをさせてもらって。

で、アメリカへ行くことになるわけ。「アメリカに行きたい」とずっと言い続けて4年。半導体やITのセールス、マーケティングをアジアでやった後に転勤で。

玉乃 完全にプロサッカー選手と同じマインドじゃないですか。個の力を高めて、目標地点に向かって移籍を繰り返す。ついに憧れの地、アメリカへ。

岡部 そう、アメリカの何が好きだったかというと、みんなそれぞれ好きなことをやっている多様性とそのパワーに惹かれたんだよね。それぞれが異質で。今でいう中国の上海や北京と似たようなエネルギーを感じてね、学生時代の当時。

国から国、分野から分野、都市から都市、会社から会社。すべてが、いろいろな所へ移るし、クロスオーバーすること自体がイノベーションなんだよね。異質がまじわることによって生まれるもの自体がね。人種も含めてね。みんな「あなたはあなただけのスペシャルがある。」「オンリーワンも持ちなさい。」と教えられて育っているわけ。周りのことは全く気にしない。オタクであろうと何だろうと関係ない。エネルギーに満ち溢れたものをアメリカに感じたわけですよね。是非一度行ってみるといいよ。

玉乃 行かないと分かりませんよね、その感覚。

岡部 それでね。いざ夢の場所、アメリカなんだけれどね。ベトナム、そしてシンガポールと渡り歩き、いざアメリカに辿り着くと、どこか物足りなさを感じる自分がいたわけ。なんだかんだベトナムとシンガポールでグローバルな仕事をしてきているから物足りなくなっているんだよね。アメリカが、大学時代に感動した憧れのアメリカではなくなっていたんだよね。僕のモノの見方、考え方、信じ方が変わって行ったんだろうね。「何これ!?アメリカってインターナショナルと思っていたけれど、シンガポールの方が全然グローバルじゃない!」って(笑)。

それで当時はアップル関係の仕事などもしていたから、周りからは「夢叶ったね、よかったね。」とか言われていたんだけれど、「まてよ?アメリカで何がしたかったんだ?」って憧れの地で迷い始めたんだよね。きっとアメリカに「行く」ことだけが目的だったんだよね…そのとき29歳。

玉乃 アメリカは変わっていないけれど、岡部さんが劇的に成長して変わったのではないですか?昔フられた女性に出世したあと会いに行ったら、実はもう大して好きじゃなかった…みたいな感覚ですかね?

岡部 それはわからないけれど…まあでも今思い返すと本当に飛び込みの人生だよね。ベトナムもシンガポールも飛び込みで面接をお願いして採用してもらって、最後アメリカまで辿り着いているから。